時代を視る

2021年8月ニュースレター 時代を視る NO328

2021年8月20日

win win代表 赤松良子

~オリンピックによせて~

今の時期(8月上旬)、ニュースを見たいと思ってTVをつけると、オリンピックばかりなので、「時代を視る」も、やっぱりオリンピック関係になった。

(1)オリンピックと女性

オリンピックの開祖がギリシャなのは周知のことだが、その時女性は、参加することはおろか、見ることも許されていなかった。ヒドイ! そうなのだが、一つ、仕方がないかという理屈もあった。競技者(男性)はスポーツウエアというものはなくみんな「一糸まとわず」だったのである。(と伝えられる。残念ながら見たわけではない)それなら、「別の場所で女性も一糸まとわず競技をやればよかったのに」と考えたが、それは現代的思考であって、ギリシャ時代というのは、ただの外出さえ女性はできなかった。食料品などの買物さえ男性がしていたらしい。女は楽でいいじゃないかと安易に思うなかれ。洗濯機も掃除機もない時代の家事(家族は多かったらしい)はなかなか大変だったのではないか? 第一、競技、競技ができるだけの体力がなかったのだろう。

近代オリンピックになって、見物は認められ、競技への参入もフェンシングから始まって、次第に増え、最後にマラソンも、男子と別々ではあるが距離は同じというものになり、42キロもの長丁場を大勢平気で走っている。現に私の友人(元出版社の編集職の女性)が走り、先般はホノルルで走ってきたのである。エライ!

(2)オリンピックと日本

私がもの心ついた時(昭和の始め)、日本は既にオリンピック参加国だった。陸上ではまだメダルに手が届かなかったが、水泳女子に前畑という名選手がいて、TVはまだなくラジオ放送ができるようになっていて、それでもラジオのある家庭は少なかったのだが、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」とアナウンサーが夢中になって叫んでいたのを記憶している。アナウンサーというものは、もっと冷静に客観的に放送せよなどという人は誰もいなかった。(その時は)「民族の祭典」と銘打って、ヒットラーが推進したベルリンオリンピックでは、日の丸が何本あがるか、日本中夢中で期待していた時代もあった。

(3)オリンピックと人権

オリンピックでは、人種、国籍、性別すべての差別なく競技することを信条としているのだが、偏見なく眺めていても、例えば陸上のランニングでは黒くて長い脚の選手がトップの一群を占めているのを見ると、あっアフリカの草原を駆けている足だ。ハヤイ! スゴイ! と感心する。しかし水中では? プールでの競技には少ないか? もちろんいるが、みんなアメリカやイギリスの選手で、アフリカの国籍ではないようだ。何故なの? 多分小学校にプールあるのは、developing countryでは少ないのがその理由なのか。(推測に過ぎずデーターは持ってない)

(4)オリンピックとTV

この関係を考えるのに、適当なのが1964年の東京オリンピックである。東京でもまだTVのある家は少なかったが、この時ドッと増えた。我が家もその時に買ったと記憶している。そして今年。

コロナのせいで、観戦は自宅のTVでと、知事までが勧めている!ヤレヤレ。